クロエリリーバッグ
null
null すると谷口は悲し気ななかにもなつかしそうな微笑を泛《うか》べた。灰色の毛布の下から左手を出して、 「三年生、四年生……君たちが疎開に行ったのは五年の二学期だったかな」  と指を折って数えた。 「毎日君と遊んでいたあの頃が、俺たち母子にとっては一番平和で安定した時期だったんだよ」 「お前が転校して来たのは三年の二学期さ。そして俺たちが疎開させられたのが、五年の二学期の始めだ。行きも帰りも貨車に乗せられたよ。俺たちは疎開じゃ遅い方だったが、そのかわり長くいないですんだから良かったと思っている」 「俺がなぜみんなといっしょに疎開しなかったか、それがもうよく判《わか》らないのだ。とにかくあの頃お袋の身にまた何か起っていたらしくて、俺は君たちが疎開して行ったすぐあと、埼玉のほうの知らない家へあずけられてしまった。小さな農家ですごく貧乏な家だったから、俺は行ったその日からずっと腹を空《す》かせっぱなしだった」 「また何か、と言ったな。君のお母さんにはそんなにしょっちゅう何か起っていたのかい」 「そうらしい。俺は子供でよく判《わか》らなかったが、物心《ものごころ》ついた頃から俺とお袋はそれこそ何かから逃げ廻っているような生活ばかりだったのだ。いったいどことどこを歩いたんだか見当もつかないが、汽車に乗ったり歩いたり、駅の待合室で寝ることも珍しくなかった。木賃宿のようなところにもよく泊ったよ。二、三か月一か所にいられればいいほうだった。どこへ行っても他所者《よそもの》だから、土地の子供たちにはよくいじめられた。しまいにはどんな態度でどんな顔をしていればいじめられないか、要領を嚥《の》みこんでしまった」  私の顔を冷たいものが覆ったような気がした。谷口の澄んだ瞳《ひとみ》や邪気のない笑顔は、結局そういう自己防衛のためのものだったのだろうか。谷口はそんな私の気持を察したように、かすかに首を左右に振るようにして喋《しやべ》り続けた。 「俺はね、お袋の正確な年齢さえ知らないんだよ。考えてみてくれ、母親の年齢なんて、父親がいたり周囲に親戚がいたりして始めて子供の耳にも入ってくるものだろう。根なし草同然にいろいろな土地を流れ歩いた俺たち母子《おやこ》には、そんな話をする機会などありはしなかった」 「でもお前は俺たちの学校へ来たじゃないか。入学するにはいろいろな手続が必要だった筈《はず》だ。本当は戸籍だってちゃんとあった筈だぞ」 「それがどうも違うらしい。あそこで落着けたのは、俺たち母子を特別にかばってくれる人がいたかららしい。俺はその人があのガラス工場の主人だったように思っているんだよ」 「よぼよぼのおじいさんだった筈《はず》だ」 「うんそうだ。だからあそこに長くいられたのさ。実は俺が怜悧男という名前で呼ばれるのを嫌ったのは、お袋が嘆いているのを聞いたからなのさ。珍しい名前だからすぐに判《わか》ってしまう、とね」  谷口の目が潤《うる》んでいた。     9